2013年12月10日火曜日

足尾

 修験の地として、日光と足尾がある。
日光については、皆さん大変詳しいと思うので足尾について記します。

 日光もだが、足尾も足元悪く入山が難しかったと聞いている。
現在は、いろは坂の麓から日足トンネルですぐにすぐには入れるが、南は、っと言うと大間々から現在は122号線で一本道で入れる。
しかし、古河市兵衛氏が足尾銅山を買い取り、事業を創めるまでは沢入(そうり)と足尾の間は、厳しい山を越えねばならなかったのだ。

銅山が始まるも、荷物の出し入れは、策道(ロープウェイで山の頂上から頂上を跨いで運んだのであった)で、日光の清滝と足尾、沢入と足尾の南北でそうしていたと言う。
馬などを使って運ぼうとする場合は、足尾を沢入の貨物運賃が沢入と大間々の料金と同額であったと言う。いかに足尾と沢入の間が危険な山道だったか分かる話である。
雨が降る度に土石流が起こり、山道は崩れ橋は流されたと聞いている。

大正元年に足尾線が開通した。
戦後、草木ダムが沢入に建設され、足尾線(現わたらせ渓谷鉄道)は、湖の西側に移りトンネルで、沢入駅まで早くなった。よって足尾駅までも時間短縮された。
その上を122号道路が足尾に向かっている。景観も美しい。

ダム建設で、沢入に住む大半の人達は外に出て行った。
現在岸辺には、有名な冨弘美術館や駅の温泉で知られる水沼駅も有り、街道沿いの住人達の手入れで年中花や緑で綺麗なドライブウェイとなっている。

途中のうどん茶屋そばに、秀郷神社がある。
この辺りも鉱山地帯であり、山中に掘った跡が沢山有ると言う。
足入は、白御影石の産地で、足尾線開通と共に石材業が盛んになった。
ちょうどその頃、東京の市電の敷石として使われた事から大量に出荷されたと言う。
現在の足利八木節音頭、宗家五代目 堀込源太の菊池悟さんが沢入の出身で、若い頃、今の東京都電の敷石を敷きに行ったと言う。

足尾への道は、桐生川からの道だけであったと聞いている。
現在、梅田ダムが建設され桐生市民の飲料水として使われているダムである。
この桐生川の東岸は、元田沼町飛駒分であったが、昭和35年だったと思うが、桐生市となったのだ。それ以前は田沼であり、この川を登って行き細尾峠に出て足尾に入る。根本山かた沢入にも入れる。
この川の両岸の山も鉱脈の連なっている山で、マンガン、鉄なども掘出していたのだ。勿論、金や銀、銅もである。

秀郷公は、北関東の広大な山々の資源や地下鉱脈などを守る役でもあったろう。高崎方面でも秀郷公に縁の有る所は沢山ある。


 一方の平将門公は、利根川などの暴れ川から農地を守る土手を構築等の活躍をした人物と知った。農民を大事にしたのだ。

 二人とも京の近衛兵として働いたとの事で日本国の発展を願っていた事では同じ気持であったと思うのだが、時代の流れから悲しい対決になり、何とも言えぬ結末になったものである。私は、神社にお参りに行き、手を合わせる位しか出来ぬが・・・


 鉱山だけが修験道の中身ではない。
医術の事で金属の使い方も大事な行法であったらしい。
例えば、古代修験道では、金や水銀を飲んだりする事で健康回復や、寿命の延長を願っていたようであるし、生きながらの即身仏と成れる様願って服用されていたとある。砒素などの劇薬も使われたと聞く。

地下から沸き出すものに温泉があるが、これも寿命延長や病に効能有り、飲んだ。これは現代でも有るが、今は科学分析しての物だが、古い昔は修験行者のカンでのものであるから、効果の出る場合も悪化した場合も有ったのではと思うが、いづれにしても人の幸せを願っての行為であったと思う。


 我々現代に生きる者は、飲み物だけでなく全ての食物に命がけで人体実験を繰り返した先祖先人に感謝したいと思う。安心、安全はこうした事から今の我々の暮らしが有ると考えられるから。




2013年11月26日火曜日

円仁と秀郷

 円仁は、師最澄のお供で、東北地方を布教で歩いている。
当時は、飢饉や伝染病などでその対策を立てる為の視察であったと思われる。
人心の安定と殖産興業により、生活を安定させる目的でその実情調査も中心だったと考える。東山道も福島の白河以南まで開通となり、その要の地(駅であり、駅家と言う重要な役目の家柄)で生まれ育った円仁の身についた知識が大きかったのであると考えた。
勿論、都の役人方も大勢の同行者も、それぞれ役目に応じた目的を持っての視察の旅であったと思う。
こうした下地があっての遣唐僧の大役を果たし、日本の指導者として日本天台の座主の地位に就いた円仁であったから、東北地方での国興しにの活躍が輝き、最澄と円仁の願った通りに展開したのだと思う。
円仁は、日本初の大師号を賜ったが、その時師最澄を讃え、一緒に頂きたいと申し上げ円仁は慈覚大師を最澄は
傳教大師の号を受けたと言う話は広く知られている所である。

 藤原秀郷公は、都から九州に流され、そちらで修験の道を学ばれたのではないかと思われる。
先に「むかで退治の話」の伝説で知られているが、鉱山関係者の間では、「むかで」とは「鉱脈」の事として知られているのだ。
「大むかで」とは、大きな鉱脈を持った鉱山を順調に稼働させたのであろう、鉱山経営は掘出す事からタタラで溶かし、品質毎に分ける技術が無いと功績があるだけでは目的の製品にはならないのだ。溶鉱炉の作り方から加熱の為に燃料。当時は炭によったそうだが、その木によっても火力が違うから、そうした総合的な知識が要求され、加えて多人数の作業なので大勢の人間をまとめる事の出来る能力もなければならない。そうした指導者であっただろうと考える。
私は、鉱山関係の本などで学ぶだけだが、山の中でその地に合った方法で作業の場を造り出し暮らす場と方法を導き出す先人達に驚くだけである。

そうした秀郷公が安蘇の地に暮らすようになり、大慈寺の西側、小さな唐沢山を挟んで領地とし、しかも東国(関東)と東北地方の中心の安蘇郡(ごうり)、その山中の飛駒に居を構えたのは、地の利だけだろうかと考えて来たのである。
しかしそれは、徐々に調べるにつけそれだけではないなと思えて来た。
唐沢山にも大慈寺の近くにもマンガン鉱の発掘跡があり、その周辺の山にもその掘削跡はある。そして佐野から葛生近辺から足尾山地、赤城山、那須連山南には、高崎地方の山地があり鉱山の宝庫でもあったのだ。
大陸では、国力の土台としてそうした金属の大事さは、国家創りの要としていたのであるから、国力作りを担う人の育成所として寺の建立がなされたと知ったのである。

 秀郷公は、平将門公を倒した人物と言う事で軍事力だけで見てしまいがちであるが、そうでなかったのである。技術者であり、科学者でも在ったと知った。平将門公は、1,100年前の人物だが、その人気は衰えていない。善政をしてきた人なのだと考える。
たまたm浅い歴史で恐縮だが、身内からの造反で危険人物と見られた様、その辺が真実なのかも知れない。

 いつの世でも、出る杭は打たれると言うの常であるし、交通も不便な時代の平安時代ゆえかも知れないが、優しく頼母(たのも)しい親方を失った人たちにも共感できる。

 岩舟町御門地区には、大きな将門神社が有る。地元の人達が大事に守っている。すぐ前に船着き場が(現在は小さな形で)残されて居り、前記した通り沼が続き船運が盛んだったと思われる。と分かる。たまたま茨城県坂東市の猿島ミュージアムで、「平将門展」が2013年12月23日まで行われているとの事で私も出かけるつもりでいる。

いずれにしても、平安時代と遠い時代の昔話やら、いい伝えばかりの世界である。

2013年11月23日土曜日

円仁の修業寺、大慈寺

 岩舟町小野寺に在る。
この沢は、唐沢山の東側で、佐野市から栃木市へ抜ける道でもある。
現在の両毛線(佐野ー岩舟駅)の北側に堀米宿、犬伏宿があり、そこから古墳の米山に突き当たり北に入った所で、三毳山の北側になる。

 千年前の水路図などによると、みかも山の東側麓に超名沼が有り、今は水田となってイオンや佐野アウトレット等、近代的な商業地域と住宅地となっている。
その超名沼からみかも山の北側に沼がつながり、東側にも岩舟駅の南に大きな沼が存在していたとの話しを古老達から聞いている。
その沼の水を現在の渡良瀬遊水池になっている赤麻沼に流す工事をしたのが陽明学で知られる熊沢蕃山で、京から約300年前に古賀藩に流されていた時に干拓事業を行った。その他にも、岩船、大平町に「蕃山溜池」を造り、治山治水の工事をした事から岩舟町の発展の土台となったと言う。因みに蕃山公の墓は、古河市の旧4号線沿いに有る鮭延寺に有り、大正天皇も墓参りに立ち寄っている。話しが脇道に入ったが、みかも山のまわりは沼が沢山有ったとの事で、今の姿からは考えられない。

 円仁の生家は、東山道の三鴨駅で駅家(うまや)であったと言う。後に関所と言われる家柄であった。
幼名は、壬生春生。
9歳で大慈寺の広智菩薩の元へ。15歳となり比叡山の最澄の弟子に広智に伴われて入山。
やがて頭角を現し最澄の高弟となり、師、最澄の願いをかなえる為42歳で遣唐僧となったのである。
2度の渡航の失敗ののち3回目で唐国に入り、10年近くの修業の旅となったのだ。
「入唐法旅日記」は、当時の正確な旅日記として当時、中国史を研究していたE.O.ライシャワー博士が20年かけ英文化して世界に発表した事で、世界中が驚いたとの事である。
ライシャワー氏は戦後、駐日大使で日本再興に貢献した。
奥様のハル、こと春子夫人の父親の本家が、わたらせ渓谷の水沼温泉駅の近くで知られている。生糸の輸出にも関係していた。

 円仁に期待を寄せていた最澄の願いは、何であったのだろうか?

仏教の奥義を極める事、仏陀の教えを広く国民に伝える為と国民の生活向上と殖産興業の発展の道作りの方法の研修であったと思う。先に書いた様に、生まれながらにして人の動き、物の流れや、時代の流れを知る家柄に育った役割は大きかったと思われる。
仏教のあり方も最澄が、それまでの物を変革する為に天台宗を起ち上げたのだ。唐国をモデルとしてきた我が国であり、遣唐僧としての円仁への期待は天皇の願いでもあったと思われる。

 産業の振興による国力の強化、農業、鉱業、工業、商業、物流、郵便、税務等その他にも薬品、医療、等々学ぶべき事は山ほどあったのでしょう。
唐国での9年3ヶ月は会昌時代の排仏の混乱した4年間を宗教者を伏せ、一般人として過ごさなければならない中、為政者の考え方によって国民の暮らしがガラっと変わってしまう現実を体験したりと大変な苦労もされたが、日本の有り方を帰国後の日本のリーダーとなってからの活躍は、日本全国への寺院建立(これは学校建設であった)や、政治の在り方までの指導者となったとの事である。
比叡山の「千日回峰行」が円仁の唐国での旅を、修行の形としている者と言うが、あの広い中国大地を歩くしかない旅のご苦労に頭が下がる。
何としても師である最澄の大願を果たさなければの思いが旅日記を読んで分かる。帰国後の東北地方の遅れていた文化の向上と発展に繋がっているのが分かる。細かくは、人間がやる事であるから陣地の取りっこで戦国時代になって行くが精神的なバックボーンとして残っている事が私にも分かるのである。
日本は、戦争で道を外してしまうも戦後の復興に際して忘れかけていた思いを元として頑張って来たが、最澄や円仁の思いがそうさせたのであると考える。

秀郷公について、修験にからめて次に記す。

2013年11月22日金曜日

むかで退治とは?!

 「むかで」とは何かを追求した。
「むかで」とは、鉱山の鉱脈と知ったのである。
鉱山の坑道を知る人達は、鉱脈は一直線にあるのではなく、まるでむかでの様にクネクネと繋がっていくが、鉱脈があの沢山の足の様に広がって行くのだから「むかで」と言う事。

佐野、岩船周辺では、マンガン鉄鉱石の採掘跡が各地にあるので参考に。
 マンガン鉱床マップと鉱山の坑道坑内図をご覧ください。
地下からのマグマの流れで、鉱山によって流れも色々であるが
下から上に流れ、固まっているのだと言う。


 秀郷公は、鉱山や炭鉱などに詳しい武人ではなかったのか?
むかで退治とは、むかで(鉱山)の金属の生産に協力したのではないのか?

金属が手に入るまでには、金鉱探し、鉱脈からの掘出し「たたら」と言う。今で言う溶鉱炉での金工師による鋳金、加治屋の業で製品となる。
特に山に分け入っての暮らしと、高熱高温の火力での技術者は炭焼きの技術者であったそうで、今現代私たちのように簡単に火を求められる状況ではなかった古代人にとっては、相当に特殊な世界であったことは想像できよう。

兵器作りを目的に北関東に派遣された秀郷は、そうした技術を持った集団を従えていた人間だったと理解できる。
参考の図面としてのマンガン鉱の鉱床図とを見て頂きたい。
修験の山伏達により鉱脈の多くは分かっていたと思われるので、そうした所の指導・管理もしていたのだろうと思う。

円仁より少し遅れての秀郷の生まれだが、天台宗の修験僧と力を合わせて国力をつける為の指導・教育も担当していたのではないかと思われる。

天明鋳物は、この辺りの川から砂金が大量に取れたそうであるし、三毳山から小野寺の辺りでは、瓦や生活道具の焼き物も沢山産された地で炭焼きも盛んであった地域であり、そうした先進産業の地であったのです。

はじめに

「円仁」平安時代の偉人である。
師、最澄の願いから唐国へ大変な困難な10年近くの長旅の末帰国。天台宗の第三世座主に就任。日本の将来の道を開いた人物として知られる。

「藤原秀郷」東国(関東東部~東北)を平定の為、安蘇郡(ごおり)に住み、やがて全国に影響を与えた人物として知られる。

 当時は毛の国安蘇の郷と言われ、唐沢山を挟んで佐野と小野寺はその中心地であったのだ。
小野寺山大慈寺は、円仁の果たした偉業と徳により修行僧が3,000人と言う大きな寺になったと聞いている。日本の指導者育成の大学であったと言う、
鎌倉時代に焼かれるまで、日本の知識集団であり修験道の先頭集団の寺でもあったのだ。
 
 円仁については、天台宗のリーダーとして活躍したのでよく知られているが、秀郷公は、武勇伝ばかりが伝わっていると考えてきた筆者である。藤原家はその後、日本のリーダーとしての活躍で良く知られるところであるが、秀郷公はどんな力を持っていたのであろうか、武術や兵法の達人は大凡わかる。しかし、昔話として「むかで退治」ばかりが大きく語られてきた。「修験道って何?」と長年心に思って来たが、その調査を発表したい。古代について研究してこられた先生方の本を読み、聞き、現代に繋がるその道に就いている人たちからもご指導いただいた、浅学な人間の論文であるが、ご覧いただきたい。