2013年11月23日土曜日

円仁の修業寺、大慈寺

 岩舟町小野寺に在る。
この沢は、唐沢山の東側で、佐野市から栃木市へ抜ける道でもある。
現在の両毛線(佐野ー岩舟駅)の北側に堀米宿、犬伏宿があり、そこから古墳の米山に突き当たり北に入った所で、三毳山の北側になる。

 千年前の水路図などによると、みかも山の東側麓に超名沼が有り、今は水田となってイオンや佐野アウトレット等、近代的な商業地域と住宅地となっている。
その超名沼からみかも山の北側に沼がつながり、東側にも岩舟駅の南に大きな沼が存在していたとの話しを古老達から聞いている。
その沼の水を現在の渡良瀬遊水池になっている赤麻沼に流す工事をしたのが陽明学で知られる熊沢蕃山で、京から約300年前に古賀藩に流されていた時に干拓事業を行った。その他にも、岩船、大平町に「蕃山溜池」を造り、治山治水の工事をした事から岩舟町の発展の土台となったと言う。因みに蕃山公の墓は、古河市の旧4号線沿いに有る鮭延寺に有り、大正天皇も墓参りに立ち寄っている。話しが脇道に入ったが、みかも山のまわりは沼が沢山有ったとの事で、今の姿からは考えられない。

 円仁の生家は、東山道の三鴨駅で駅家(うまや)であったと言う。後に関所と言われる家柄であった。
幼名は、壬生春生。
9歳で大慈寺の広智菩薩の元へ。15歳となり比叡山の最澄の弟子に広智に伴われて入山。
やがて頭角を現し最澄の高弟となり、師、最澄の願いをかなえる為42歳で遣唐僧となったのである。
2度の渡航の失敗ののち3回目で唐国に入り、10年近くの修業の旅となったのだ。
「入唐法旅日記」は、当時の正確な旅日記として当時、中国史を研究していたE.O.ライシャワー博士が20年かけ英文化して世界に発表した事で、世界中が驚いたとの事である。
ライシャワー氏は戦後、駐日大使で日本再興に貢献した。
奥様のハル、こと春子夫人の父親の本家が、わたらせ渓谷の水沼温泉駅の近くで知られている。生糸の輸出にも関係していた。

 円仁に期待を寄せていた最澄の願いは、何であったのだろうか?

仏教の奥義を極める事、仏陀の教えを広く国民に伝える為と国民の生活向上と殖産興業の発展の道作りの方法の研修であったと思う。先に書いた様に、生まれながらにして人の動き、物の流れや、時代の流れを知る家柄に育った役割は大きかったと思われる。
仏教のあり方も最澄が、それまでの物を変革する為に天台宗を起ち上げたのだ。唐国をモデルとしてきた我が国であり、遣唐僧としての円仁への期待は天皇の願いでもあったと思われる。

 産業の振興による国力の強化、農業、鉱業、工業、商業、物流、郵便、税務等その他にも薬品、医療、等々学ぶべき事は山ほどあったのでしょう。
唐国での9年3ヶ月は会昌時代の排仏の混乱した4年間を宗教者を伏せ、一般人として過ごさなければならない中、為政者の考え方によって国民の暮らしがガラっと変わってしまう現実を体験したりと大変な苦労もされたが、日本の有り方を帰国後の日本のリーダーとなってからの活躍は、日本全国への寺院建立(これは学校建設であった)や、政治の在り方までの指導者となったとの事である。
比叡山の「千日回峰行」が円仁の唐国での旅を、修行の形としている者と言うが、あの広い中国大地を歩くしかない旅のご苦労に頭が下がる。
何としても師である最澄の大願を果たさなければの思いが旅日記を読んで分かる。帰国後の東北地方の遅れていた文化の向上と発展に繋がっているのが分かる。細かくは、人間がやる事であるから陣地の取りっこで戦国時代になって行くが精神的なバックボーンとして残っている事が私にも分かるのである。
日本は、戦争で道を外してしまうも戦後の復興に際して忘れかけていた思いを元として頑張って来たが、最澄や円仁の思いがそうさせたのであると考える。

秀郷公について、修験にからめて次に記す。

0 件のコメント:

コメントを投稿