2013年11月26日火曜日

円仁と秀郷

 円仁は、師最澄のお供で、東北地方を布教で歩いている。
当時は、飢饉や伝染病などでその対策を立てる為の視察であったと思われる。
人心の安定と殖産興業により、生活を安定させる目的でその実情調査も中心だったと考える。東山道も福島の白河以南まで開通となり、その要の地(駅であり、駅家と言う重要な役目の家柄)で生まれ育った円仁の身についた知識が大きかったのであると考えた。
勿論、都の役人方も大勢の同行者も、それぞれ役目に応じた目的を持っての視察の旅であったと思う。
こうした下地があっての遣唐僧の大役を果たし、日本の指導者として日本天台の座主の地位に就いた円仁であったから、東北地方での国興しにの活躍が輝き、最澄と円仁の願った通りに展開したのだと思う。
円仁は、日本初の大師号を賜ったが、その時師最澄を讃え、一緒に頂きたいと申し上げ円仁は慈覚大師を最澄は
傳教大師の号を受けたと言う話は広く知られている所である。

 藤原秀郷公は、都から九州に流され、そちらで修験の道を学ばれたのではないかと思われる。
先に「むかで退治の話」の伝説で知られているが、鉱山関係者の間では、「むかで」とは「鉱脈」の事として知られているのだ。
「大むかで」とは、大きな鉱脈を持った鉱山を順調に稼働させたのであろう、鉱山経営は掘出す事からタタラで溶かし、品質毎に分ける技術が無いと功績があるだけでは目的の製品にはならないのだ。溶鉱炉の作り方から加熱の為に燃料。当時は炭によったそうだが、その木によっても火力が違うから、そうした総合的な知識が要求され、加えて多人数の作業なので大勢の人間をまとめる事の出来る能力もなければならない。そうした指導者であっただろうと考える。
私は、鉱山関係の本などで学ぶだけだが、山の中でその地に合った方法で作業の場を造り出し暮らす場と方法を導き出す先人達に驚くだけである。

そうした秀郷公が安蘇の地に暮らすようになり、大慈寺の西側、小さな唐沢山を挟んで領地とし、しかも東国(関東)と東北地方の中心の安蘇郡(ごうり)、その山中の飛駒に居を構えたのは、地の利だけだろうかと考えて来たのである。
しかしそれは、徐々に調べるにつけそれだけではないなと思えて来た。
唐沢山にも大慈寺の近くにもマンガン鉱の発掘跡があり、その周辺の山にもその掘削跡はある。そして佐野から葛生近辺から足尾山地、赤城山、那須連山南には、高崎地方の山地があり鉱山の宝庫でもあったのだ。
大陸では、国力の土台としてそうした金属の大事さは、国家創りの要としていたのであるから、国力作りを担う人の育成所として寺の建立がなされたと知ったのである。

 秀郷公は、平将門公を倒した人物と言う事で軍事力だけで見てしまいがちであるが、そうでなかったのである。技術者であり、科学者でも在ったと知った。平将門公は、1,100年前の人物だが、その人気は衰えていない。善政をしてきた人なのだと考える。
たまたm浅い歴史で恐縮だが、身内からの造反で危険人物と見られた様、その辺が真実なのかも知れない。

 いつの世でも、出る杭は打たれると言うの常であるし、交通も不便な時代の平安時代ゆえかも知れないが、優しく頼母(たのも)しい親方を失った人たちにも共感できる。

 岩舟町御門地区には、大きな将門神社が有る。地元の人達が大事に守っている。すぐ前に船着き場が(現在は小さな形で)残されて居り、前記した通り沼が続き船運が盛んだったと思われる。と分かる。たまたま茨城県坂東市の猿島ミュージアムで、「平将門展」が2013年12月23日まで行われているとの事で私も出かけるつもりでいる。

いずれにしても、平安時代と遠い時代の昔話やら、いい伝えばかりの世界である。

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