2013年11月22日金曜日

はじめに

「円仁」平安時代の偉人である。
師、最澄の願いから唐国へ大変な困難な10年近くの長旅の末帰国。天台宗の第三世座主に就任。日本の将来の道を開いた人物として知られる。

「藤原秀郷」東国(関東東部~東北)を平定の為、安蘇郡(ごおり)に住み、やがて全国に影響を与えた人物として知られる。

 当時は毛の国安蘇の郷と言われ、唐沢山を挟んで佐野と小野寺はその中心地であったのだ。
小野寺山大慈寺は、円仁の果たした偉業と徳により修行僧が3,000人と言う大きな寺になったと聞いている。日本の指導者育成の大学であったと言う、
鎌倉時代に焼かれるまで、日本の知識集団であり修験道の先頭集団の寺でもあったのだ。
 
 円仁については、天台宗のリーダーとして活躍したのでよく知られているが、秀郷公は、武勇伝ばかりが伝わっていると考えてきた筆者である。藤原家はその後、日本のリーダーとしての活躍で良く知られるところであるが、秀郷公はどんな力を持っていたのであろうか、武術や兵法の達人は大凡わかる。しかし、昔話として「むかで退治」ばかりが大きく語られてきた。「修験道って何?」と長年心に思って来たが、その調査を発表したい。古代について研究してこられた先生方の本を読み、聞き、現代に繋がるその道に就いている人たちからもご指導いただいた、浅学な人間の論文であるが、ご覧いただきたい。

 

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