2013年11月22日金曜日

むかで退治とは?!

 「むかで」とは何かを追求した。
「むかで」とは、鉱山の鉱脈と知ったのである。
鉱山の坑道を知る人達は、鉱脈は一直線にあるのではなく、まるでむかでの様にクネクネと繋がっていくが、鉱脈があの沢山の足の様に広がって行くのだから「むかで」と言う事。

佐野、岩船周辺では、マンガン鉄鉱石の採掘跡が各地にあるので参考に。
 マンガン鉱床マップと鉱山の坑道坑内図をご覧ください。
地下からのマグマの流れで、鉱山によって流れも色々であるが
下から上に流れ、固まっているのだと言う。


 秀郷公は、鉱山や炭鉱などに詳しい武人ではなかったのか?
むかで退治とは、むかで(鉱山)の金属の生産に協力したのではないのか?

金属が手に入るまでには、金鉱探し、鉱脈からの掘出し「たたら」と言う。今で言う溶鉱炉での金工師による鋳金、加治屋の業で製品となる。
特に山に分け入っての暮らしと、高熱高温の火力での技術者は炭焼きの技術者であったそうで、今現代私たちのように簡単に火を求められる状況ではなかった古代人にとっては、相当に特殊な世界であったことは想像できよう。

兵器作りを目的に北関東に派遣された秀郷は、そうした技術を持った集団を従えていた人間だったと理解できる。
参考の図面としてのマンガン鉱の鉱床図とを見て頂きたい。
修験の山伏達により鉱脈の多くは分かっていたと思われるので、そうした所の指導・管理もしていたのだろうと思う。

円仁より少し遅れての秀郷の生まれだが、天台宗の修験僧と力を合わせて国力をつける為の指導・教育も担当していたのではないかと思われる。

天明鋳物は、この辺りの川から砂金が大量に取れたそうであるし、三毳山から小野寺の辺りでは、瓦や生活道具の焼き物も沢山産された地で炭焼きも盛んであった地域であり、そうした先進産業の地であったのです。

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